嘘について。
端的に言えば、嘘とは、
1、事実とは異なる。
2、騙す意図の下に行われる。
3、言葉以外でも成り立つメッセージ、表現である。
1は正確には「発信者が『事実とは異なる』と認識している」と言える。
即ち、あるメッセージが事実と異なるとしても、それが発信者の誤認に基づいているなら嘘とはならない。逆に、発信者がある物事を誤認したうえで事実を表現しているなら、それは表面上では真実であるが、嘘だと言える。
2はつまり、意志の問題と言える。事実ではない事でも、例えば冗談や修辞表現は嘘にはならない。過度な誇張や比喩、予め事実でないと断られた表現は嘘ではない。つまり、受信者が事実とは異なる情報を受け取る、と認識しながらなされる表現は嘘になる。冗談が嘘にならないのは「受信者がその表現を事実とは異なるものとして受け取る」という認識の下でなされるからである。
また、1の誤認を表したメッセージも、騙す意志の下にはないので嘘にはならない。
人間は言語以外にも表現手段を持つ。「情報を発信する全ての行為に嘘を作る事ができる」というのが3である。
視覚情報を例にとれば、発信者が認識する自己像を隠すために、部屋着と外出用の衣服を全く違ったものにするのは嘘となるだろう。
勿論、騙す意図のないものは含まれないので、単に礼儀を理由に衣服を変えるのは嘘にはならない。しかし「礼儀を弁えているような人間ではない」という自己像を持ちながら、「弁えている」人間像を与えるための表現は嘘であろう。
これまでをまとめると、嘘とは、
「発信者が事実と異なると認識したうえで、騙す意図の下で為される情報の発信」
と、言えようか。
嘘をつかないためには、自らの諸事に対する認識と、表現しようとしている事を注意深く省みることが肝要である。
愛を定義する試み(粗め)
愛を、今までと違い何でもアリの視点から、該当しそうな一々を挙げることで定義してみる。(以前は、肉欲は愛ではないって考えてたりした)
求める
接触(感覚による認識を欲する)
高じると性的欲求や同化欲求にもなる。
知覚(存在することの欲求)
高じると接触の欲求にもなる。
学習(知識に対する欲求)
高じると研究の欲求にもなる。
産する
繁殖(人間の産出)
研究(知識体系の産出)
創作活動(作品の産出)
高める
より良い(善い)ものにする欲求(古代ギリシャの少年愛など)
物の提供、献身。
共有
空間の共有(低い程度の接触欲求ともとれる)
同化(接触欲求が高じて同化欲求になることもある)
模倣(空間共有の妥協としても表れる)
注釈(乃至はまとめ)
対象が人間であるとは限らない。創作や研究などは言わずもがな、動物愛や無機物に対するフェティシズムも含む。
ある欲求が二つ以上の属性を持っていたり、他の欲求の増幅、妥協の結果、低い段階での表れであったりすることもある。
一部は自己愛にもなる。対象が他ではなく自己になる。
今日の学習 2017/04/12
今日、視聴した講義は <国際理解のために> の第一回。
内容は「ユダヤ、キリスト、イスラム教の位置関係」、この三つの宗教が如何なる体系に成り立つかである。
私は既に「ソロモン72柱の魔神」でユダヤ教を、「神曲」でキリスト教を、「インフェルノ」でイスラム教を、ほんの少しばかり齧っていたので今回の講義の大筋はすんなりと理解できた。
しかし、旧約聖書における「モーセの海割り」や、ムハンマドが最後の預言者であるというイスラム教の主張は初めて耳にしたものだったので、その点、収穫も大きかった。
また、講師である高橋和夫さんの締めの言葉「なぜヘブライ文字は右から左に書かれるか」という事からの「今日、私が教えたことが貴方達の右耳から入り、そのまま左耳から流れ出はしないかが心配である」というジョークは彼の性格を物語っているかも知れない。